『鬼滅の刃』に登場する上弦の参・猗窩座(あかざ)は、戦闘中に「弱者は嫌いだ」と繰り返し口にします。単なる強者信仰や暴力的な思想のようにも見えますが、彼の過去を辿ると、その言葉の裏には複雑で切ない心理背景が隠されています。この記事では、猗窩座の“弱者嫌い”という価値観を、彼の生い立ちやトラウマ、そして心理学的視点から紐解いていきます。
猗窩座の「弱者嫌い」とは?
猗窩座は、作中でたびたび「弱者を見るとイライラする」「弱い者には価値がない」といった発言をしています。その一方で、彼は鬼としては珍しく純粋な肉弾戦を好み、正面からの戦いにこだわる傾向があります。無惨のような狡猾さとは異なり、“まっすぐな強さ”に固執する猗窩座の姿は、多くの読者の印象に残ったことでしょう。
幼少期のトラウマが生んだ“弱さ”への嫌悪
人間だったころの猗窩座(本名:狛治〈はくじ〉)は、病弱な父を支えるためにスリを繰り返すという過酷な幼少期を過ごしました。しかし、彼の罪を悔いた父は自ら命を絶ち、「まっとうに生きてほしい」という言葉を遺します。この出来事が、狛治の心に「自分は弱いから大切な人を守れなかった」という深い劣等感と自己嫌悪を刻みつけました。
その後出会った慶蔵と恋雪の優しさによって、一時は穏やかな生活を手にした狛治でしたが、ふたりを毒殺で失ったことにより、再び自分の“無力さ”に打ちのめされます。彼にとって「弱さ」は大切な人を守れない原因であり、自分が憎んでも憎みきれないものだったのです。
心理学的に見る“投影”と“過剰適応”
猗窩座のように過去に大きな喪失体験やトラウマを抱えた人物は、自分の中にある“弱さ”を直視できず、それを他人に投影することで感情を処理するケースがあります。心理学ではこれを「投影」と呼びます。
つまり、彼の「弱者を嫌う」という感情は、本来は自分自身の“弱くて何も守れなかった過去の自分”への怒りであり、それを外部に投影して「弱者は嫌いだ」と叫んでいると解釈することができます。
また、失敗を繰り返さないように「今度こそ強くならなければ」と強迫的に頑張り続ける状態は「過剰適応」と呼ばれます。猗窩座が強さに執着し、自らの力を鍛え続ける姿勢も、この心理が働いていた可能性があります。
“闘気”を持つ者への執着=自己肯定の裏返し
猗窩座の術式「羅針」は、相手の“闘気”を感知する能力です。闘気とは、命の執着や殺気、意志といった内面的エネルギーを可視化したものとされています。彼が強者に執着するのは、闘気を持つ者――つまり“生きようとする意志が強い人間”に、自分の理想を重ねていたからかもしれません。
しかしその一方で、彼は“闘気を断つ”ことに成功した炭治郎の動きを全く読めず、動揺します。これは、彼が「闘気こそが強さの証」と信じていたからこそ起きた出来事であり、それはつまり、「自分の価値観が崩れた瞬間」でもありました。
猗窩座の「嫌悪」は“自己肯定”のための鎧
猗窩座は、鬼として多くの命を奪ってきたにも関わらず、どこかに“誇り”や“信念”を持ち続けていたキャラクターでもあります。それは、「強くあろうとすること」にしか、存在価値を見出せなかったからでしょう。
「弱さを嫌う」ことは、過去の自分を切り捨てるためであり、「強さに執着する」ことは、かろうじて自分を肯定する手段だった。猗窩座の歪んだ信念は、彼の苦しみの証でもあるのです。
まとめ:猗窩座の“弱者嫌い”は心の叫びだった
猗窩座の「弱者を嫌う」という価値観の裏には、深い傷と劣等感が隠されています。それは、彼自身が弱かった過去を否定しなければ生きていけなかったという“心の叫び”であり、彼が鬼になってまで求め続けた“強さ”とは、救われなかった自分自身への償いでもあったのかもしれません。
猗窩座は決して単なる“悪役”ではなく、人間の弱さと葛藤を背負った、極めて人間的な存在だといえるでしょう。
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