『鬼滅の刃』獪岳(かいがく)の過去との苦悩とは?善逸との対比が浮かび上がらせた悲劇

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『鬼滅の刃』の中でも、雷の呼吸を継承しながら“正反対の道”を歩んだ二人――我妻善逸と獪岳(かいがく)。
同じ師・桑島慈悟郎(くわじま・じごろう)のもとで修行したにもかかわらず、なぜ獪岳は鬼へと堕ち、善逸は“雷の呼吸 壱ノ型(いちのかた)”を極めて乗り越えられたのか。
本記事では、獪岳の過去、雷の呼吸の継承者としての葛藤、「壱ノ型が使えない」という致命的な劣等感、善逸との対比、黒死牟(こくしぼう)との関係までを丁寧に解説します。


獪岳とは?──鬼になる前は「雷の呼吸」の剣士だった

獪岳は、元・鳴柱である桑島慈悟郎の弟子として、善逸と同門で修行していた雷の呼吸の継承者です。
高い学習能力と実力を持ちながらも、自尊心が強く、他者に対する感謝や敬意が乏しい一面が描かれています。彼の性格は、のちに“鬼としての道”を選ぶ決定的な素因となってしまいました。

「壱ノ型だけが使えない」──継承者としての致命的な欠落

雷の呼吸の原点ともいえる壱ノ型・霹靂一閃。善逸はこの型“だけ”しか使えない半面、獪岳は壱ノ型“だけ”が使えないという対照的な状態にありました。
呼吸の“基礎”を欠いているという事実は、彼の承認欲求と劣等感を増幅し、次第に「自分は報われない」「自分だけが不公平だ」という歪んだ認識へとつながっていきます。

善逸との対比:一の型しか使えない男と、一の型だけ使えない男

善逸は、壱ノ型しか扱えない“欠落”を抱えながらも、それを極限まで磨き上げ、“神速”や“漆ノ型・火雷神(ほのいかづちのかみ)”へと昇華させました。
一方の獪岳は、多くの型を扱える実力を持ちながらも、「欠けている一点」を受け入れられず、他者を見下すことでしか自尊心を保てなかった
この「自分の弱さを受け入れた者」と「受け入れられなかった者」という対比こそが、二人の運命を分ける大きな分岐点だったのです。

黒死牟との遭遇──“生き残るために仲間を売った”瞬間

獪岳が鬼となった決定的な契機は、上弦の壱・黒死牟との遭遇でした。死の間際、彼は鬼殺隊としての誇りよりも「生への執着」を選び、無惨側へと膝を折ることを選択します。
それは同時に、師匠・慈悟郎の誇りを踏みにじる行為であり、結果的に慈悟郎が切腹するという悲劇を招きました。
この事実は、善逸にとっても“許してはならない背信”であり、無限城での最終決戦における二人の因縁の深さを決定づけます。

無限城での対決:善逸は“恐怖”を越え、獪岳は“自分”を越えられなかった

無限城での善逸と獪岳の戦いは、雷の呼吸の正統後継者を決める戦いでもありました。
善逸は壱ノ型を極め抜いた末に、新たに「漆ノ型・火雷神」を編み出し、獪岳を討ち果たします。
一方の獪岳は、最後まで誰かに感謝することも、己の弱さを認めることもできませんでした。「強くなりたい」という願いは本物だったのに、強さの意味を見誤ってしまった――それが、彼の最大の悲劇なのです。

まとめ:獪岳は“強くなりたかった”だけの青年だった

獪岳は、能力的に劣っていたわけではありません。むしろ、雷の呼吸の多くの型を扱える実力者でした。
しかし彼は、自分の欠損を受け入れ、努力で埋めようとする「心の強さ」だけは持てなかった。
善逸が“恐怖を超えた”のに対し、獪岳は最後まで“自分の弱さ”を超えることができなかった――雷の呼吸という同じ流派を継ぎながら、対照的な生き方が生んだ悲劇は、作品の中でも屈指の胸を打つエピソードです。


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