猗窩座という鬼を“悪”と断じてよいのか
『鬼滅の刃』に登場する上弦の参・猗窩座(あかざ)は、強さを求めて戦い続ける鬼として描かれます。多くの柱を倒し、仲間である鬼殺隊にとっては憎むべき存在。しかし、彼の過去を知ると「果たして彼は本当に“悪”なのか?」という問いが生まれてきます。
守りたい人を守れなかった後悔
人間時代、猗窩座は「狛治(はくじ)」という名で、病の父や恋人・恋雪を守るために必死に生きていました。スリをしながら薬代を稼ぎ、真っ当に生きようと努力し、ようやくつかんだ幸せは、他人の悪意によって一瞬で奪われてしまいます。
このときの深い喪失感が、彼の心を壊し、復讐心を爆発させる引き金となりました。罪悪感、無力感、そして怒り。その果てに、鬼舞辻無惨から差し伸べられた「鬼になる」という選択肢は、狛治にとって“救い”だったのかもしれません。
“弱さ”を否定し続けた理由
鬼となった猗窩座は、「弱者は嫌いだ」と口にし、強さに固執します。それは、自分の弱さを許せなかったから。守りたかった人を守れなかった自分の弱さを、鬼としての強さで埋めようとしたのです。
彼の残酷さの裏には、決して“悪意”だけがあったわけではありません。むしろ、「もう二度と失いたくない」という強い執念と恐怖からくる行動だったとも言えるのです。
人間としての心は残っていた
猗窩座は、鬼になった後も人間の記憶を完全に失っていたわけではありません。深層心理に残る後悔や哀しみが、彼の“本能”として強さを求めさせていたのです。
終盤、自分の過去を思い出した猗窩座が涙を流す場面は、多くのファンの心を揺さぶりました。その姿に、私たちは「悪」とは言い切れない“人間らしさ”を感じ取ったのではないでしょうか。
“選べなかった”人生の悲劇
猗窩座は決して最初から鬼だったわけではなく、環境と不幸な偶然の積み重ねで追い詰められた結果、鬼という道を選んでしまった存在です。その選択は“間違い”だったかもしれませんが、“悪”と断罪するにはあまりに切ない理由がありました。
まとめ:猗窩座は悪か、それとも哀しい人間か
『鬼滅の刃』の猗窩座は、単なる悪役ではなく、「強さとは何か」「人間とは何か」を問いかける象徴的なキャラクターです。彼の選択の裏にある弱さと哀しみを知ることで、私たちは“悪”の定義についても考えさせられるのです。
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