NHK連続テレビ小説『ブラッサム』で、葉野珠(石橋静河)が応募する小説『脂粉の顔(しふんのかお)』。
この作品は、主人公のモデルとなった作家・宇野千代が実際に書いた短編小説です。
『脂粉の顔』は、カフェで働く女性・お澄が、外国人男性との出会いをきっかけに、自分の容姿や境遇に引け目を感じていく物語です。
華やかな恋愛小説を想像するかもしれませんが、描かれているのは、期待を裏切られた女性の複雑な心情です。
宇野千代は1921年(大正10年)、この作品で新聞『時事新報』の懸賞小説に一等入選し、賞金200円を獲得しました。
今回は『脂粉の顔』のあらすじと結末、タイトルに込められた意味、宇野千代が小説家として歩み始めた実話を紹介します。
『脂粉の顔』はどんな小説?
『脂粉の顔』は、宇野千代が1921年に発表した短編小説です。
主人公は、カフェで給仕女として働くお澄という女性。
外国人男性から経済的な援助を申し出られたお澄が、ある出来事を通して、自分の置かれた立場を思い知らされる様子が描かれています。
お澄の期待や戸惑い、嫉妬、屈辱といった感情が、短い文章の中に凝縮されています。
『脂粉の顔』のあらすじを結末まで解説
ここからは、作品の結末にも触れながら、物語の流れを紹介します。
カフェで働くお澄と外国人男性の出会い
主人公のお澄は、カフェで働く給仕女です。
年老いた母親と暮らしており、経済的に余裕のある生活ではありません。
あるとき、お澄は店の客であるスイス人男性・フバーから、毎月60円を渡すという申し出を受けます。
フバーは横浜の羽二重輸出会社で支配人を務める人物です。
当時の60円は、お澄にとって簡単に手にできる金額ではありません。
生活に余裕のない彼女は、フバーの申し出に期待を抱きます。
しかし、その期待は思いがけない形で裏切られることになります。
競馬場で出会った美しい女性
翌日、お澄はフバーに誘われて競馬場へ出かけます。
ところが、待ち合わせの場所にはフバーだけでなく、見知らぬ美しい女性もいました。
その女性は若く、身なりも整っていて、明るく振る舞います。
競馬場では、その女性を中心に会話が進み、お澄は次第に居心地の悪さを感じるようになります。
自分の着物は古びているのではないか。
店で美しく見えていた化粧も、明るい場所では不自然なのではないか。
お澄は美しい女性と自分を比べ、強い引け目を感じます。
フバーの態度にも変化が表れ、お澄は自分が歓迎されていないことを悟っていくのです。
結末|フバーから届いた絶交の手紙
競馬場へ出かけた翌日、お澄はフバーに連絡を取ろうとします。
しかし、フバーの反応は冷たく、その後、関係を絶つという内容の手紙が届きます。
お澄が期待していた関係は、あっけなく終わってしまいました。
彼女は、なぜフバーの態度が変わったのかを考えます。
その理由として心に浮かぶのが、自分の化粧をした顔です。
薄暗いカフェでは美しく見えていた顔が、真昼の光の下では違って見えたのではないか。
お澄は、その答えを知ることができません。
物語は、彼女の胸に残った割り切れない思いを描いて終わります。
この余韻こそが、『脂粉の顔』の印象的なところです。
『脂粉の顔』というタイトルの意味は?
「脂粉(しふん)」とは、紅やおしろいなど、化粧に使うものを指す言葉です。
つまり『脂粉の顔』とは、化粧を施した顔という意味になります。
作品では、この化粧が重要な役割を果たしています。
夜のカフェと昼の競馬場で変わるお澄の姿
お澄が働くカフェは、ガス灯の明かりがともる薄暗い場所です。
その光の下では、化粧をしたお澄の顔も美しく映ります。
しかし、競馬場は明るい昼間の屋外です。
お澄は、そこで自分の化粧や服装がどう見えているのかを気にし始めます。
夜のカフェでは自信を持てていたのに、昼の光の下では自信を失ってしまう。
この対比によって、お澄の不安が鮮やかに描かれています。
化粧だけでなく、女性の自尊心を描いた物語
『脂粉の顔』は、単に化粧の失敗を描いた小説ではありません。
お澄が傷ついたのは、容姿への自信だけではないからです。
フバーから経済的な援助を申し出られ、自分が特別に選ばれたように感じていたお澄。
ところが、美しい女性が現れたことで、その期待が崩れてしまいます。
相手の態度によって自分の価値まで変わってしまったように感じる苦しさが、物語の中心にあります。
お澄は最後まで、フバーが自分に失望した本当の理由を知ることができません。
だからこそ、彼女の心に残る傷ついた思いが、読者にも伝わってくるのです。
『脂粉の顔』は宇野千代の実体験を描いた小説?
『脂粉の顔』は創作小説ですが、宇野千代自身の経験や感覚と重なる部分があります。
特に注目したいのが、カフェで働く女性を主人公にしていることと、化粧に対する複雑な思いです。
宇野千代自身もカフェで働いた経験があった
宇野千代は若いころ、東京・本郷にあった西洋料理店「燕楽軒(えんらくけん)」で給仕の仕事をした経験があります。
燕楽軒は、当時の文学者や編集者たちが集まる場所でもありました。
千代はそこで、さまざまな人々と出会っています。
『脂粉の顔』の主人公・お澄も、カフェで働く女性です。
千代が実際に経験した接客の仕事や、そこで目にした人間関係が、作品を考えるうえで参考になった可能性があります。
ただし、物語に登場するフバーとの出来事が、そのまま千代自身に起きたというわけではありません。
宇野千代は化粧にも強い関心を持っていた
宇野千代は、若いころから化粧や装いに関心を持っていた女性です。
自伝『生きて行く私』でも、自分の容姿やおしろいにまつわる思いを振り返っています。
化粧をすることで美しく見せたいという気持ちと、素顔を見られることへの不安。
そうした女性の繊細な感情を、千代はよく理解していたのでしょう。
『脂粉の顔』のお澄にも、化粧によって自信を持ちながら、その化粧のために傷つくという複雑な心理が描かれています。
後年、着物のデザインや美容にも活動の幅を広げた宇野千代らしい題材として読むこともできます。
宇野千代は『脂粉の顔』で一等賞を受賞した
宇野千代が『脂粉の顔』を応募したのは、新聞『時事新報』が募集した懸賞小説でした。
応募作品は3,000編を超え、その中から見事に一等を獲得します。
1921年(大正10年)1月、千代が24歳になる年の出来事でした。
札幌で暮らしていた宇野千代が応募
当時の宇野千代は、夫の藤村忠とともに北海道・札幌で暮らしていました。
忠は北海道拓殖銀行に勤め、千代は仕立て物の仕事をしながら文学活動を続けていました。
札幌では文芸同人誌『啓明』にも参加しており、『脂粉の顔』はその第2号に掲載する予定だった作品です。
千代は新聞の懸賞小説募集を知り、この作品を応募しました。
そして1921年1月21日、一等入選が発表されます。
地方で暮らしていた若い女性の作品が、全国から集まった数千編の中で一等に選ばれたのです。
一等の賞金は200円だった
宇野千代が受け取った一等の賞金は200円です。
当時としては大変な金額で、千代自身もその大きさに驚いたことを後年振り返っています。
仕立て物をしながら暮らしていた千代にとって、自分の書いた小説がこれほどの収入につながったことは、忘れられない経験だったでしょう。
しかも、入選は金銭面だけでなく、千代に作家としての自信を与えました。
自分には小説を書く力がある。
そう感じた千代は、ますます執筆に打ち込むようになります。
二等には後の作家・尾崎士郎も入選
この懸賞小説には、後に小説家として活躍する尾崎士郎も応募していました。
尾崎は「尾崎泗作」の名前で『獄中より』を応募し、二等に入選しています。
さらに、後の横光利一も応募作品が選ばれています。
新人作家たちが競い合った懸賞で、宇野千代の作品が一等に選ばれたことは、文学史の中でも興味深い出来事です。
また、尾崎士郎はその後、宇野千代の人生に深く関わる人物となります。
『ブラッサム』の珠と宇野千代の実話はどうつながる?
『ブラッサム』の葉野珠は、宇野千代をモデルにした人物です。
東京で保と出会い、北海道へ移住するという流れにも、千代の人生が反映されています。
史実の宇野千代も、札幌で仕立て物をしながら小説を書き、懸賞小説への応募をきっかけに作家として注目されました。
この時期は、千代が文学の世界へ本格的に踏み出す重要な転機です。
それまで千代は、生活のためにさまざまな仕事を経験してきました。
小学校の代用教員や給仕の仕事、仕立て物などをしながら、書くことへの思いを持ち続けていたのです。
『脂粉の顔』の一等入選によって、千代は小説を書くことが自分の人生を切り開く力になると実感します。
ドラマで珠が小説に挑戦する姿も、こうした宇野千代の歩みを知ると、より印象深く感じられます。
『脂粉の顔』はどこで読める?
『脂粉の顔』を実際に読んでみたい方には、岩波文庫の『老女マノン・脂粉の顔 他四篇』がおすすめです。
2019年に刊行された短編集で、宇野千代の初期作品が収録されています。
収録作品は次の6編です。
- 脂粉の顔
- 墓を発く
- 巷の雑音
- 三千代の嫁入
- ランプ明るく
- 老女マノン
『脂粉の顔』に続いて発表された『墓を発く』も収録されているため、宇野千代がどのように作家として成長していったのかを知ることができます。
『脂粉の顔』は短い作品なので、朝ドラをきっかけに宇野千代の文学に触れてみたい方にも読みやすい一編です。
まとめ|『脂粉の顔』から始まった宇野千代の作家人生
『脂粉の顔』は、カフェで働く女性・お澄の恋への期待や失望、傷ついた自尊心を繊細に描いた短編小説です。
宇野千代はこの作品で懸賞小説の一等に選ばれ、作家としての大きな一歩を踏み出しました。
生活のためにさまざまな仕事を経験しながらも、書くことへの情熱を持ち続けてきた千代。その才能が認められた瞬間は、どれほどうれしかったことでしょう。
『ブラッサム』の珠もまた、多くの出会いや別れを経験しながら、自分の人生を切り開こうとしています。
華やかな成功の裏には、悩み、傷つき、それでも前へ進んできた一人の女性の歩みがあります。そんな宇野千代の人生を思うと、『脂粉の顔』という作品が、より味わい深く感じられますね。
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