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『ブラッサム』珠が働く悠樂軒は実在する?モデルの燕楽軒と宇野千代の史実

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NHK連続テレビ小説『ブラッサム』で、東京へやって来た珠が働くことになる西洋レストラン「悠樂軒(ゆうらくけん)」。

岩国では悪い噂が広まり、仕事を探してもなかなか雇ってもらえなかった珠ですが、東京では思いがけない場所に働き口が見つかります。

しかも、この悠樂軒には、毎回大金のチップを置いていく黒崎大三郎編集長が現れます。

実は、珠のモデルとなった作家・宇野千代も、東京・本郷の西洋料理店でウェイトレスとして働いていました。

その店の名前は「燕楽軒(えんらくけん)」。文豪や編集者が集まる、当時としてはハイカラなレストランでした。

そして、宇野千代にも50銭ものチップを置いていく編集者との出会いがあったのです。

今回は、悠樂軒の実在モデルと考えられる燕楽軒の歴史や場所、大正時代の西洋レストランの様子、ウェイトレスの給料、黒崎編集長のモデルとなった人物について紹介します。

『ブラッサム』珠が働く悠樂軒は実在する?

『ブラッサム』に登場する「悠樂軒」は、東京・本郷にある西洋レストランです。

珠は上京後、保との暮らしを支えるために仕事を探し始めます。

そこで新聞の求人広告をきっかけに訪れるのが、悠樂軒でした。

店長の熊田に採用され、珠はウェイトレスとして働くことになります。

店にはスギ、ヨネ、松子といった女性たちも働いており、珠にとって新しい人間関係が始まる場所でもあります。

悠樂軒という店名はドラマ上のものですが、モデルと考えられる実在の西洋料理店があります。

それが、宇野千代が1917年(大正6年)に働いた「燕楽軒」です。

店の所在地や文学者たちとの交流、気前のよい編集者がチップを置いていくエピソードまで共通しており、燕楽軒の史実がドラマの下敷きになっていると考えられます。

悠樂軒のモデル「燕楽軒」は東京のどこにあった?

燕楽軒があったのは、現在の東京都文京区本郷三丁目付近です。

本郷といえば、東京帝国大学のお膝元。

大学の周辺には学生や研究者だけでなく、出版社や文学者も集まっていました。

燕楽軒は、そんな本郷の文化人たちが食事をする場所として親しまれていたのです。

燕楽軒は本格的な西洋料理店だった

燕楽軒を開いたのは、西尾益吉という料理人です。

西尾は、東京を代表する西洋料理店として知られた築地精養軒で料理長を務めた経験を持つ人物でした。

燕楽軒は3階建ての洋館で、本格的な西洋料理を提供していたと伝えられています。

当時、西洋料理は現在ほど身近な食事ではありませんでした。

都市部ではカレーライスやカツレツなどの洋食が広まり始めていましたが、格式ある西洋料理店で食事をすることは、庶民にとって特別な体験だったでしょう。

燕楽軒は、学生が毎日気軽に通う安い食堂というより、比較的裕福な客や文化人が利用する店だったと考えられます。

向かいには『中央公論』の出版社があった

燕楽軒の特徴は、店の立地にもありました。

通りを挟んだ向かい側には、文芸雑誌『中央公論』を発行する中央公論社がありました。

そのため、編集者が昼食に訪れたり、作家を連れて食事をしたりすることがあったのです。

宇野千代がこの店で働いたことは、後の作家人生につながる大きな偶然でした。

大正時代の西洋レストランはどんな場所だった?

大正時代は、東京を中心に西洋文化が暮らしの中へ広がっていった時代です。

洋服や洋館、コーヒー、洋食などが都市の新しい文化として注目されていました。

1911年(明治44年)には銀座に「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」が開店し、飲食店が文化人の交流の場になることもありました。

ただし、当時の「カフェー」と燕楽軒のような西洋料理店は、必ずしも同じものではありません。

カフェーには酒や接客を楽しむ店もありましたが、燕楽軒では料理を提供することが中心でした。

宇野千代も後年、燕楽軒での仕事について、料理や酒を運ぶのが役目で、それ以外の客への応対は禁じられていたと振り返っています。

現在のレストランのウェイトレスに近い仕事だったことが分かります。

燕楽軒のランチは約1円だった?

当時の燕楽軒では、ランチが約1円だったと紹介されることがあります。

一方、学生向けの食堂では10〜15銭程度で食事ができたという記録もあります。

単純に比較すると、燕楽軒での食事は学生食堂の約7〜10倍です。

ただし、料理の内容や提供された年代が異なるため、同じ条件で比較した価格ではありません。

それでも、燕楽軒が気軽な学生食堂とは違う客層を相手にしていたことは想像できます。

そんな店に文学者や出版社の編集者が集まり、食事をしながら仕事の話をしていたのです。

大正時代のウェイトレスの給料はいくらだった?

珠が悠樂軒で働くことになり、気になるのがウェイトレスの収入です。

当時の女性が飲食店で働いた場合、どのくらいのお金を稼げたのでしょうか。

残念ながら、宇野千代が燕楽軒でもらっていた基本給の金額は確認できませんでした。

ただし、大正時代の女性の仕事や飲食店の収入については、参考になる記録が残っています。

女性の仕事として給仕が広まり始めた時代

大正時代には、電話交換手、事務員、タイピスト、女店員など、女性が賃金を得て働く職業が少しずつ増えていきました。

西洋料理店やカフェーで働く給仕も、その一つです。

ただし、現在のように女性が飲食店で働くことが当たり前だったわけではありません。

宇野千代自身も、当時はレストランで働くことを人に自慢できるような仕事とは思っていなかったと、後年の著書で振り返っています。

教師として働いていた女性が、今度は客に料理を運ぶ仕事に就く。

珠にとっても、これまでとはまったく違う世界だったのでしょう。

カフェーの女給と西洋料理店のウェイトレスは違う

大正末期には、カフェーの女給が月に数十円を稼いだという記録も見られます。

しかし、カフェーでは客の接待やチップが収入の中心になる場合もあり、一般的なレストランの給仕とは働き方が異なりました。

そのため、カフェーの女給の収入を、そのまま燕楽軒の給料として考えることはできません。

宇野千代が燕楽軒でどれほどの基本給を受け取っていたかは分かりませんが、客からのチップが貴重な収入になっていたことは確かです。

そして、そのチップをくれた人物こそ、後の作家人生に関わる重要な編集者でした。

黒崎編集長が置いていく50銭のチップは大金だった?

『ブラッサム』の悠樂軒には、雑誌『首都公論』の編集長・黒崎大三郎が客として訪れます。

黒崎は店を訪れるたび、50銭ものチップを置いていく気前のよい人物です。

大正時代の50銭は、決して小さなお金ではありませんでした。

例えば、学生食堂の食事が10〜15銭だったとすれば、50銭で3〜5食ほど食べられる計算です。

当時の教師の月給と比較しても、その価値が分かります。

宇野千代顕彰会の年譜によると、宇野千代が1914年に代用教員として働き始めたころの月給は8円でした。

50銭は、その月給の16分の1に当たります。

もちろん、1914年と1917年では物価も異なりますが、食事のたびに50銭を置いていく客が、いかに気前よく映ったかが分かります。

黒崎編集長のモデルは滝田樗陰?宇野千代にも50銭のチップをくれる常連客がいた

黒崎大三郎のモデルと考えられるのが、『中央公論』の名編集者・滝田樗陰(たきた・ちょいん)です。

滝田は燕楽軒の常連客で、昼食のためにたびたび店を訪れていました。

宇野千代が担当する席に座り、食事を終えると50銭銀貨をチップとして置いていったと伝えられています。

千代は、その50銭を楽しみに滝田の来店を待っていたそうです。

ドラマで黒崎編集長が大金のチップを置いていくのは、この実話をもとにした描写と考えられます。

しかも、滝田は単に気前のよい客だっただけではありません。

当時の『中央公論』は、作家たちが作品を掲載してもらいたいと願う有力な雑誌でした。

その編集者と、まだ無名だった宇野千代が顔見知りになったのです。

千代にとって燕楽軒は、生活費を稼ぐ場所であると同時に、文学の世界へ近づく場所にもなりました。

宇野千代は本当に燕楽軒でウェイトレスをしていた?

宇野千代が燕楽軒で働いたことは、実際の経歴にも残っています。

宇野千代顕彰会の年譜によると、1917年(大正6年)、20歳の千代は東京へ出て、婦人記者や家庭教師、女店員などの仕事を転々としていました。

その中の一つが、本郷三丁目の燕楽軒での仕事です。

働いた期間は、わずか18日間でした。

短い勤務でしたが、滝田樗陰をはじめ、多くの文学者と知り合う機会になりました。

当時の千代は、後に夫となる藤村忠と東京で暮らしていました。

忠は東京帝国大学で学んでおり、二人の生活には経済的な苦労もあったといいます。

千代がさまざまな仕事に就いたのも、生活を支えるためでした。

ドラマの珠も、東京で保との暮らしを支えようと働き始めます。

この点でも、宇野千代の実際の経験が反映されているようです。

燕楽軒には芥川龍之介などの文豪も通っていた

燕楽軒の魅力は、客として訪れる人々にもありました。

宇野千代が働いていたころ、店には次のような文学者たちが出入りしていました。

  • 芥川龍之介
  • 久米正雄
  • 佐藤春夫
  • 今東光
  • 今日出海

宇野千代は、料理を運ぶ仕事をしながら、こうした文学者たちと接することになったのです。

特に芥川龍之介との関係は興味深く、芥川の短編小説『葱(ねぎ)』に登場する女性は、若いころの宇野千代がモデルになったといわれています。

また、今東光は千代に強い関心を寄せ、仕事帰りに家まで送っていたという逸話もあります。

故郷の岩国では恋愛の噂に苦しんだ千代ですが、東京では多くの文学者たちと出会い、まったく違う世界を知ることになりました。

燕楽軒での出会いが宇野千代の作家人生につながった

燕楽軒で働いた経験が重要だったのは、後に滝田樗陰との縁が生きたからです。

宇野千代は1921年(大正10年)、北海道で暮らしていたときに書いた小説『脂粉の顔』が懸賞小説で一等に選ばれます。

これが作家としての大きな転機になりました。

その後、千代は新たに書いた小説『墓を発く』を、『中央公論』の滝田樗陰に送りました。

そして1922年、『中央公論』に作品が掲載されることになります。

かつてレストランで50銭のチップをくれた編集者に、自分の書いた小説を読んでもらう。

燕楽軒での出会いが、数年後に思いがけない形でつながったのです。

宇野千代が燕楽軒で働いたのは18日間だけでしたが、そこで出会った人々は、その後の人生に大きな影響を与えました。

『ブラッサム』でも、珠と黒崎編集長との関係が、今後どのように変化していくのか注目したいところです。

まとめ|悠樂軒は珠が小説家への道を歩み始める重要な場所

『ブラッサム』に登場する西洋レストラン「悠樂軒」は、宇野千代が実際に働いた東京・本郷の「燕楽軒」をモデルにしたと考えられます。

燕楽軒は、本格的な西洋料理を提供する店で、近くにあった中央公論社の編集者や文学者たちが集まっていました。

宇野千代は1917年にウェイトレスとして働き、わずか18日間の勤務で滝田樗陰や芥川龍之介らと知り合っています。

また、滝田が毎回50銭のチップを置いていったという逸話は、ドラマの黒崎編集長の描写とも重なります。

燕楽軒での仕事は、生活費を稼ぐために始めたものでした。

しかし、そこで得た出会いは、宇野千代が小説家として歩み始めるきっかけの一つになります。

岩国では悪い噂に苦しんでいた珠が、東京でどんな人々と出会い、自分の人生を切り開いていくのか。

悠樂軒は、珠の新しい人生を描くうえで欠かせない場所になりそうです。

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