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宇野千代はなぜ桜を愛した?淡墨桜を救った「花咲かばあさん」と桜への思い

エンタメ

宇野千代と聞いて、桜を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

宇野千代の本の表紙には桜をモチーフにしたものがあり、自らデザインした着物にも桜が数多く登場します。

さらに宇野千代は、岐阜県にある老桜「根尾谷淡墨ザクラ」の保護にも力を尽くしました。

小説『薄墨の桜』を書き、晩年には「幸福の種をまく花咲かばあさんになりたい」と語っています。

宇野千代にとって、桜は単に「好きな花」ではなかったのでしょう。

宇野千代自身が、桜について「私の故郷の花」「私の心の花」という言葉を残しています。

なぜ宇野千代は、それほどまでに桜を愛したのでしょうか。

故郷・岩国の桜、着物に咲かせた桜、そして一度は衰弱した老木を再び咲かせようと奔走した淡墨桜。

宇野千代の人生をたどっていくと、桜は彼女の生き方そのものと深く重なっているように見えてきます。

宇野千代は桜を「私の心の花」と呼んでいた

宇野千代は1897年、山口県岩国に生まれました。

岩国といえば錦帯橋が有名ですが、その周辺は現在も桜の名所として知られています。

幼い頃から故郷の風景の中に桜があった宇野千代にとって、桜は特別な存在になっていきました。

後に宇野千代は、桜について「故郷の花」であり「心の花」でもあるという思いを書き残しています。

この言葉には、宇野千代と桜の関係がよく表れています。

きれいだから好き。

春になると咲くから好き。

それだけではありません。

桜を見ることは、宇野千代にとって自分の原点である岩国を思い出すことでもあったのでしょう。

若い頃、宇野千代は故郷を離れ、その後は東京や北海道などさまざまな土地で暮らしました。

恋愛も結婚も仕事も、自分の気持ちに従って大胆に人生を切り開いていきます。

それでも故郷・岩国とのつながりが消えることはありませんでした。

遠くへ行っても、自分の中には故郷の桜が咲いている。

「心の花」という言葉には、そんな宇野千代の思いが込められているように感じます。

宇野千代の着物にはなぜ桜柄が多い?

小説家として知られる宇野千代ですが、実は着物のデザイナーとしても活躍しました。

1949年、52歳のときに「宇野千代きもの研究所」を設立。

宇野千代は着物のデザインについても、小説を書くことと同じように大切な仕事として向き合っていました。

そして宇野千代が手掛けた着物には、桜をモチーフにしたものが数多くあります。

大きく華やかな桜。

花びらが舞う桜。

淡い色の中に浮かび上がる桜。

さまざまな形で桜を着物の中に咲かせました。

宇野千代にとって着物に桜を描くことは、単なる流行のデザインではなかったのでしょう。

自分の「心の花」を、自分のもう一つの仕事である着物に表現していたと考えると、とても宇野千代らしく感じられます。

小説家なのに着物デザイナー?宇野千代はどちらも本気だった

宇野千代という人物の面白さは、一つの肩書きだけに収まらないところにもあります。

小説家として成功したから、文学だけを続ける。

そんな生き方ではありませんでした。

着物のデザインに興味を持てば、自分で研究所をつくる。

1957年、60歳のときにはアメリカ・シアトルで着物ショーも開催しています。

宇野千代自身、小説と着物のデザインを上下で考えず、それぞれ独立した大切な仕事として捉えていました。

この考え方も、「自分がやりたいと思ったことをやる」という宇野千代の生き方につながっています。

そして、その自由な表現の中で何度も選ばれたのが桜でした。

文章でも、着物でも、宇野千代の人生には桜が現れます。

宇野千代が救おうとした「淡墨桜」とは?

宇野千代と桜の関係を語るうえで欠かせないのが、岐阜県本巣市根尾にある「根尾谷淡墨ザクラ」です。

国の天然記念物に指定されている巨大な老桜で、現在、本巣市では樹齢1500余年と紹介されています。

長い年月を生きてきた淡墨桜ですが、何度も衰弱や災害の危機に見舞われてきました。

1948年には、前田利行医師の指導によって238本もの根接ぎが行われ、樹勢回復が図られました。

ところが1959年の伊勢湾台風で再び大きな被害を受けます。

太い枝が折れ、葉や小枝もほとんど失われてしまいました。

根尾村でも支柱を増やしたり肥料を与えたりして保護を続けましたが、なかなか回復しません。

そんな淡墨桜のもとを、1967年4月11日に宇野千代が訪れます。

宇野千代、70歳のときでした。

70歳の宇野千代が始めた淡墨桜を救うための活動

衰弱した淡墨桜を目にした宇野千代は、そのままにしておくことができませんでした。

老桜を救うための募金活動を始めます。

岩国市の宇野千代公式サイトによると、宇野千代の熱意を受けて岐阜県からの手当も行われ、淡墨桜は蘇生を遂げました。

前田利行医師による根接ぎをはじめ、地元の人々や行政など、多くの人が長い年月をかけて淡墨桜を守ってきました。

宇野千代も、その保護の歴史に大きく関わった一人です。

ここで印象的なのは、宇野千代がすでに70歳だったことです。

「老木を救うために自分に何ができるのか」と考え、実際に動き出す。

宇野千代は年齢を重ねても、興味を持ったことに対して行動する人でした。

その対象が、自分が生涯愛した「桜」だったのです。

なぜ「薄墨桜」ではなく「淡墨桜」と書くことがある?

宇野千代と桜について調べていると、「淡墨桜」と「薄墨の桜」という二つの表記が出てきます。

少し分かりにくいので整理しておきましょう。

岐阜県本巣市にある実際の桜は、国の天然記念物として「根尾谷淡墨ザクラ」と表記されています。

一方、宇野千代がこの桜を題材として書いた小説のタイトルは『薄墨の桜』です。

つまり、

実在する桜=淡墨桜

宇野千代の小説=『薄墨の桜』

と覚えておくと分かりやすいでしょう。

宇野千代は淡墨桜を小説『薄墨の桜』にもした

淡墨桜との出会いは、保護活動だけで終わりませんでした。

宇野千代は後に『薄墨の桜』という小説を書いています。

作品の中に登場するのは、長い年月を生き、一度衰えながら再び蘇った巨大な桜です。

その桜のもとで、複雑な人間関係や愛憎が描かれていきます。

桜は美しい。

しかし、ただ美しいだけではありません。

何十年、何百年という時間を生き、人間たちの出会いや別れを見つめ続ける存在でもあります。

宇野千代は淡墨桜を守る活動をしながら、同時に作家として桜を物語の中にも生かしました。

実際の桜を救う。

着物の中に桜を咲かせる。

そして小説の中にも桜を咲かせる。

宇野千代にとって桜は、人生のさまざまな場所に存在していたことが分かります。

淡墨桜と宇野千代はどこか似ている

ここからは少し、宇野千代がなぜ淡墨桜にこれほど心を動かされたのかを考えてみたいと思います。

淡墨桜は長い年月を生きてきた桜です。

衰弱し、災害で大きな傷を負いながら、それでも人々の手によって再び花を咲かせました。

宇野千代の人生も、決して平坦ではありません。

結婚と離婚、恋愛、仕事、成功と挫折。

何かが終わっても、そこで人生を終わらせず、次へ進んでいきました。

若い頃だけが人生の花ではない。

一度傷ついたからといって、もう咲けないわけでもない。

何度でも立ち上がり、また花を咲かせればいい。

宇野千代が淡墨桜に自分自身を重ねていたと断定することはできません。

それでも、老いてなお花を咲かせ続ける桜に強く惹かれたことは、宇野千代の生き方を知るほど自然に思えてきます。

「花咲かばあさんになりたい」に込められた宇野千代の思い

宇野千代は1996年6月10日、98歳で亡くなりました。

同年8月、故郷の岩国では市葬が行われています。

その会場には、生前の宇野千代が愛した桜と錦帯橋が飾られました。

東京で行われたお別れの会に飾られた、高さ4メートルの枝垂れ桜も二本置かれています。

さらに宇野千代が88歳の米寿祝賀会で着た、黒地に桜の花びらをあしらった大振袖も飾られました。

まさに桜に囲まれた別れでした。

そして式典では、生前の宇野千代の声が流れます。

「私は幸福の種をまく花咲かばあさんになりたい」

とても宇野千代らしい言葉です。

「花咲かばあさん」は、枯れ木に花を咲かせる昔話の主人公。

しかし宇野千代がまこうとしたのは、桜の種だけではありません。

「幸福の種」です。

自分が前向きに生きることで、誰かの心にも花を咲かせたい。

そんな宇野千代の人生観まで、この短い言葉に込められているように感じます。

桜は宇野千代の「老い」のイメージまで変えてくれる

宇野千代と桜について知っていくと、一つ面白いことに気づきます。

桜というと、一般的には若さや儚さと結びつけて語られることが多い花です。

満開になったと思えば、短期間で散ってしまう。

ところが宇野千代が惹かれた淡墨桜は、まったく違います。

何百年、何千年という時間を生きる老桜です。

古くなっても、傷ついても、春が来れば再び咲く。

宇野千代自身も50代で着物の仕事を本格化させ、70歳で淡墨桜の保護活動に動き、90歳を過ぎても自分の人生を語り続けました。

年齢を重ねることを「枯れていくこと」とは考えなかった人なのでしょう。

何歳になっても、また花を咲かせることができる。

淡墨桜は、そんな宇野千代の人生観とよく似合います。

宇野千代が亡くなったあとも故郷には桜が残っている

宇野千代が亡くなっても、桜との物語は終わっていません。

岩国に残る宇野千代の生家には現在も日本庭園があり、梅や桜、紅葉、苔などが庭を彩っています。

さらにそこには、小説『薄墨の桜』のモデルとなった岐阜・根尾の老桜に由来する桜も植えられています。

そして岐阜の淡墨桜も、多くの人によって現在まで守り続けられています。

宇野千代が生きた時代は終わっても、彼女が愛し、守ろうとした桜は毎年花を咲かせます。

宇野千代の言葉や小説を知らない人でも、桜をきっかけに彼女の人生を知ることができます。

それは「幸福の種をまく花咲かばあさんになりたい」と願った宇野千代が、今も種をまき続けているようにも思えます。

『ブラッサム』でも「桜」は重要なモチーフになる?

NHK朝ドラ『ブラッサム』は、宇野千代の人生をモデルに葉野珠の生涯を描いています。

宇野千代の人生と桜がこれほど深く結びついている以上、これから珠の人生を描くうえで桜がどのように登場するのかも気になるところです。

特に注目したいのが、若い珠だけではありません。

宇野千代と桜の関係が深くなっていくのは、むしろ年齢を重ねてからです。

52歳で着物研究所を設立し、70歳で淡墨桜の保護活動を始めています。

『ブラッサム』が珠の長い人生を描くのであれば、桜もまた、少女時代だけではなく中年期、晩年へと続くモチーフになる可能性があります。

錦帯橋が珠の波乱に満ちた人生を象徴するものなら、桜は何度でも花を咲かせる珠の生命力を象徴するものになるのかもしれません。

これは現時点では考察ですが、宇野千代が残した人生を知っていると、これから『ブラッサム』に映る桜の見え方も変わってきそうです。

まとめ

宇野千代は桜を「故郷の花」であり「心の花」だと表現しました。

その言葉通り、桜は生涯にわたって宇野千代のそばにありました。

故郷・岩国で見た桜。

自らデザインした着物に咲かせた桜。

70歳で保護活動に乗り出した根尾谷淡墨ザクラ。

そして小説『薄墨の桜』。

98歳で亡くなったときにも、故郷で行われた市葬は桜に囲まれていました。

宇野千代が愛したのは、ただ美しく咲く桜だけではなかったのでしょう。

長い年月を生き、傷ついても、再び花を咲かせる桜。

それは何度つまずいても次へ進み、年齢を重ねても新しいことに挑み続けた宇野千代自身の姿とも重なります。

「幸福の種をまく花咲かばあさんになりたい」

宇野千代が最後まで大切にした桜は、故郷の思い出であると同時に、彼女がどのように生きたいのかを映す花だったのかもしれません。

そして宇野千代が亡くなってからも、岩国と根尾では桜が咲き続けています。

毎年咲くその花こそ、宇野千代が残した「幸福の種」の一つなのではないでしょうか。

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